私の昭和、平成そして令和  スタッフM

ここまで書いてきて、昭和の話題に尽きてしまったと痛感する次第ですが、古い人間となった今、致し方ないところでしょうか?

昭和から平成にかけて私の中での大きな出来事はクジラ(オキゴンドウ)の飼育でした。一喜一憂しながらライフワークのようにとりくんでいた時代があります

。今の若いスタッフの中には私がクジラ担当で「クジラショー」も企画していたことを意外に思っている人もいるようです。

驚くべき事実は拙者(カッコつけるねーがく〜 (落胆した顔))「クジラ・イルカ・ペンギン~桂浜水族館飼育記」「エッセイ~桂浜水族館飼育記」と「おらんくの水族館75年物語~潮吹くサカナを泳がせたい」で紹介していますがこれらは今は完売した廃刊となっています。

クジラについては機会を見て紹介してみたいと思いますが、これではますます平成ネタがなくなり、まして令和もしかりです。どうしたものか……泣き顔泣き顔

    私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)番外編➁」  スタッフМ

    昭和46、47年の寮生活中の話。毎日当たり前に食べていた寮食だが、欠食日という休みの日があった。これはそう度々あるものではなく、炊夫(婦)さん方の献心的な苦労には今でも頭が下がる思いである。

    さて、欠食日には私たち寮生は外食したり、金欠病の者は何やかんや工夫をして腹を満たしていたものであった。

    よく食べていたのは、製パン所でサンドウィッチを作る際に落とすパンの耳である。安く大量に入手できるので、仲間でバターやらジャムやらをつけて食べていたものである。

    缶詰をおかずにしたことが多く、日曜日が欠食日の時は近くの日曜市でトマトなどを買ってきて、耳パン(端パン)をかじったものであった。

    のどかで楽しい寮生活の1コマだったと思う。小津の杜の思い出の番外編である。

    小津の杜(もり)、完

      私の昭和、平成そして令和「小津の社(もり)番外編①」  スタッフM

      日清のチキンラーメンが世に登場した昭和30年代、私は小学生であり、リアルタイムで体験したことは前のシリーズ「食べ物カルチャーショック」で紹介した次第。

      その後はもう1手間かけた出前一丁やサッポロ一番などの袋麺が登場し、チキンラーメンは1たび姿を消してしまった。

      実際、私が寮生活をしていた頃もお湯をかけるだけのチキンラーメンはなく、本来なら鍋で作る袋麺が主流となっていた。

      本来ならというのは、古いボロボロの木造の南溟寮(なんめいりょう)ではガスコンロなど火を使うものが禁止されていて、ラーメンは電気ポットで作っていたのであった。

      脂でギトギトになったポットはもう1度お湯を沸かしてから洗い流していた。そのポットで酒も燗していた。

      卒業後いつの間にかチキンラーメンが復活し、カレー味や味噌味などのバリエーションもあり、消えたと思ったが、現在ではしぶとく生き残り、若者たちにも受けているようである。生みの親である安藤百福氏も胸をなでおろしていることだろう。

        私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑪」 スタッフМ

        小津の杜の南溟寮(なんめいりょう)も私が南国市の日章、農学部に出て行くと同時に新寮闘争実って朝倉米田の地に移った。

        当時、高知市内に飲みに出て、廃屋となった寮に入り、涙しながら壁をはがして持ち帰ったことがあった。

        朝倉の新寮にも、3.4回生の頃ばかりか卒業後もたびたび訪れた。壁にもラクガキをした。それはまだ私の同期生や先輩が卒業できずに8年近くも寮のヌシとして存在していたからであった。

        新寮にも新しい風習が生まれ、受け継がれているようだ。寮生頑張れとエールを送りたい。

        正味わずか2年暮らしただけの小津の杜。古い写真とともに私の心の中に深く残っている。番外編をあと2回ほどやっておひらきにしたいと思う。

          私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑩」  スタッフМ

          時代的には、山陽新幹線が新大阪から岡山まで開通、大阪高知特急フェリーと土佐特急フェリーそしてさんふらわあといった大型フェリーが就航し、松阪への帰省にもバリエーションができた。飛行機もあるにはあったが、使うことはなかった。

          役員期間が終わると1人部屋が与えられ、優遇される。酔って帰ってくる上級生による説教も避けて通るのだ。役員経験者はキャリア組なのだ。

            私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑨」 スタッフМ

            話かわって、寮生活2年目には役員のお鉢が回ってきた。

            1寮炊事委員という肩書きである。当時の南溟寮(なんめいりょう)は1寮から5寮まであり、それぞれに寮長と2名に委員がいた。

            そして、それを束ねる総務、副総務がいて、総務室において不定期的に開かれる寮長会議はかなりピリピリしたものがあった。

            夏休みも思い通りに帰省できず、よさこい祭りに高知大学のチームにかり出され、3日3晩踊ったが、これはいい思い出となっている。

            実はよさこいに参加したのは後にもさきにもこれ1回限りである。

              私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑧」  スタッフМ

              前回脱線してしまったので「小津の杜」に戻らねばならぬ、南溟寮(なんめいりょう)に暮らした2年間は学生運動が盛んな頃であった。

              成田空港建設に反対するいわゆる「三里塚の闘争」に参加した同級生が逮捕されるといったこともあった。

              高知大学でも全共斗と民主青年同盟という2大セクトがあったが、ノンポリであった私は詳細は知らない。他の大学から過激派が攻め入ってきて全共斗と一戦を交えたことがある。

              革マルとか中核とかいわゆる内ゲバである。朝倉キャンパスの学生会館は火炎ビンは飛ぶわ、消火の放水でガラスは割れるわ、水びたしになるわで、大変なことになった。購買も学食も利用不能の状態がしばらく続いたのである。

                私の昭和、平成そして令和「小津の森(もり)⑦」  スタッフM

                さて、私は子どもの頃から虫が大好きで、毎年いろいろな虫をつかまえて飼育するのを趣味としていた。

                カブトムシやクワガタも採集したりしたが、それよりもキリギリスやコオロギなど鳴く虫に興味があった。図鑑でしか見たことのない南方系のタイワンクツワムシが高知ではしっかり生息していて感動を覚えたものだ。

                私はこのような虫の捕獲に絶妙なワザを習得していた。すべて素手であり、片手で横抜いにしてつかみ、長いヒゲや足を傷つけることなく手中におさめる技術を身につけていたのであった。

                前回登場したカップヌードルの友人とも鏡川の岸辺で虫を採った(今、そんな大学生いるだろうか?)。

                私の特技を見た彼、実はお兄さんが盲目の人で、音のあるものに興味があるとのこと。虫をたくさんつかまえたことがうれしく、明日これをもって大阪に帰ると言い出した。何ともムチャクチャな話だが……。

                私の心には強く残っている。さて、小津の杜(もり)からはなれてしまった。

                次は軌道修正

                  私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑥」  スタッフМ

                  寮生活の何じゃかんじゃあって1年が過ぎた。寮生も淘汰されて少なくなったが、私は私なりに楽しんでいたようである。昭和47年(1972)のこと。日曜日には日曜市や帯ブラ(わかるかなぁ?)。

                  製パン工場から耳パン(端パン)を安価で大量に仕入れて、バターやジャムなどをつけて仲間で食べたりしていた。

                  日清のカップヌードルが誕生したのもこの頃。大阪出身の友人のもとに実家から送られてきたものを食べさせてもらった。当時は中央との時間差があり、噂に聞いた食べ物もなかなか入ってこなかったようだ。

                  そういえば実家のある三重県でほぼ姿を消していた百円札がこちらでは横行していたっけ。ただ、ファッションだけは新しい物好きな土佐人気質で、先取りする風潮があるといわれていた。

                    私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑤」  スタッフМ

                    何年か前に、私の3年ほど後輩に当たる寮OBが、寮歌を歌う会を作ろうと私たちの時代の人を集めて4,5回ほど続けたことがあった。

                    その時、南溟寮(なんめいりょう)へ行ってみようと誰かが言い出して、急拠酒とツマミを仕入れて乗り込んで行ったことがあった。

                    応対してくれた総務(寮の最高責任者)はさわやかで男気のある好青年で、現在は周辺住民への配慮を余儀なくされているが、今日は特別に寮歌を歌ったりストーム(豪気節を歌い乱舞する)をやってもよいと言ってくれた。

                    そこで、懐かしい小津の杜ではなく、朝倉米田の田園地帯……だったが今では住宅地で心置きなくやらせてもらい、寮生たちから水をぶっかけられ、ビショビショになり、高知の町に戻って飲み直したものであった。