私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑩」  スタッフМ

時代的には、山陽新幹線が新大阪から岡山まで開通、大阪高知特急フェリーと土佐特急フェリーそしてさんふらわあといった大型フェリーが就航し、松阪への帰省にもバリエーションができた。飛行機もあるにはあったが、使うことはなかった。

役員期間が終わると1人部屋が与えられ、優遇される。酔って帰ってくる上級生による説教も避けて通るのだ。役員経験者はキャリア組なのだ。

    私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑨」 スタッフМ

    話かわって、寮生活2年目には役員のお鉢が回ってきた。

    1寮炊事委員という肩書きである。当時の南溟寮(なんめいりょう)は1寮から5寮まであり、それぞれに寮長と2名に委員がいた。

    そして、それを束ねる総務、副総務がいて、総務室において不定期的に開かれる寮長会議はかなりピリピリしたものがあった。

    夏休みも思い通りに帰省できず、よさこい祭りに高知大学のチームにかり出され、3日3晩踊ったが、これはいい思い出となっている。

    実はよさこいに参加したのは後にもさきにもこれ1回限りである。

      私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑧」  スタッフМ

      前回脱線してしまったので「小津の杜」に戻らねばならぬ、南溟寮(なんめいりょう)に暮らした2年間は学生運動が盛んな頃であった。

      成田空港建設に反対するいわゆる「三里塚の闘争」に参加した同級生が逮捕されるといったこともあった。

      高知大学でも全共斗と民主青年同盟という2大セクトがあったが、ノンポリであった私は詳細は知らない。他の大学から過激派が攻め入ってきて全共斗と一戦を交えたことがある。

      革マルとか中核とかいわゆる内ゲバである。朝倉キャンパスの学生会館は火炎ビンは飛ぶわ、消火の放水でガラスは割れるわ、水びたしになるわで、大変なことになった。購買も学食も利用不能の状態がしばらく続いたのである。

        私の昭和、平成そして令和「小津の森(もり)⑦」  スタッフM

        さて、私は子どもの頃から虫が大好きで、毎年いろいろな虫をつかまえて飼育するのを趣味としていた。

        カブトムシやクワガタも採集したりしたが、それよりもキリギリスやコオロギなど鳴く虫に興味があった。図鑑でしか見たことのない南方系のタイワンクツワムシが高知ではしっかり生息していて感動を覚えたものだ。

        私はこのような虫の捕獲に絶妙なワザを習得していた。すべて素手であり、片手で横抜いにしてつかみ、長いヒゲや足を傷つけることなく手中におさめる技術を身につけていたのであった。

        前回登場したカップヌードルの友人とも鏡川の岸辺で虫を採った(今、そんな大学生いるだろうか?)。

        私の特技を見た彼、実はお兄さんが盲目の人で、音のあるものに興味があるとのこと。虫をたくさんつかまえたことがうれしく、明日これをもって大阪に帰ると言い出した。何ともムチャクチャな話だが……。

        私の心には強く残っている。さて、小津の杜(もり)からはなれてしまった。

        次は軌道修正

          私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑥」  スタッフМ

          寮生活の何じゃかんじゃあって1年が過ぎた。寮生も淘汰されて少なくなったが、私は私なりに楽しんでいたようである。昭和47年(1972)のこと。日曜日には日曜市や帯ブラ(わかるかなぁ?)。

          製パン工場から耳パン(端パン)を安価で大量に仕入れて、バターやジャムなどをつけて仲間で食べたりしていた。

          日清のカップヌードルが誕生したのもこの頃。大阪出身の友人のもとに実家から送られてきたものを食べさせてもらった。当時は中央との時間差があり、噂に聞いた食べ物もなかなか入ってこなかったようだ。

          そういえば実家のある三重県でほぼ姿を消していた百円札がこちらでは横行していたっけ。ただ、ファッションだけは新しい物好きな土佐人気質で、先取りする風潮があるといわれていた。

            私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑤」  スタッフМ

            何年か前に、私の3年ほど後輩に当たる寮OBが、寮歌を歌う会を作ろうと私たちの時代の人を集めて4,5回ほど続けたことがあった。

            その時、南溟寮(なんめいりょう)へ行ってみようと誰かが言い出して、急拠酒とツマミを仕入れて乗り込んで行ったことがあった。

            応対してくれた総務(寮の最高責任者)はさわやかで男気のある好青年で、現在は周辺住民への配慮を余儀なくされているが、今日は特別に寮歌を歌ったりストーム(豪気節を歌い乱舞する)をやってもよいと言ってくれた。

            そこで、懐かしい小津の杜ではなく、朝倉米田の田園地帯……だったが今では住宅地で心置きなくやらせてもらい、寮生たちから水をぶっかけられ、ビショビショになり、高知の町に戻って飲み直したものであった。

              私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)④」  スタッフМ

              この寮歌練習の間に、喉が弱く大声が出せないという理由で退寮した者や夜逃げした者が出た。

              たしかにシゴキではあったが、儀式のようなものであり、しっかり覚えなければどうこうされるものではなく、逆に寮歌は私たちの心の歌、誇りでもあるという感覚が生まれてきた。

              コンパなどでは率先してこれらの歌が歌われた。当時はカラオケなどなく、手拍子で歌ったものだった。

              現在、私の勤務する桂浜水族館に博物館実習やインターンシップで来る高知大生で南溟寮生(なんめいりょうせい)や寮をよく知る学生に聞くと、いつの頃から寮歌練習は廃れてしまい、寮歌が歌われることがなくなったとのこと。

              それでも一部の高知大生や教官の間で「慕南歌」などが歌い継がれているようである。

                私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)➂」  スタッフМ

                一回生として入寮すると間もなく寮歌練習というものが始まる。

                一週間ほどかけて毎日1曲から2曲の寮歌を覚えさせられる。そもそも寮歌は旧制高知高等学校時代、大正13年度より毎年募集して作られてきたらしく、その中から優れたもの、学生たちによって歌い継がれてきたものから10数曲が選ばれ、たたきこまれる。夜の10時になると1回生全員が食堂に集められ、役員が1節ずつ歌うのを何回か繰り返して歌い、覚えこんでいく。

                直立不動で2時間、「声が小さーい!」などとゲキをとばされ耐え抜かねばならない。寮の南側すぐ近くを江ノ口川が流れており、当時はパルプ廃液で茶色くドロドロに汚染され、臭いこと臭いこと。プーンと漂ってきた。

                また、これも近くの高知城には動物園(現在はわんぱーくこうちアニマルランド)があり、当時飼育されていたゾウのナミコさんがもの悲しげにパオーッと鳴く声が聞こえてきた。

                  私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)➁」  スタッフМ

                  さて、南溟寮(なんめいりょう)に入ってびっくり。面接というのがあり、1人1人が部屋に呼ばれ、役員たちにとり囲まれ、正座をして声をふりしぼって応答しなければならない。

                  凄みをきかせた役員もあり、恐ろしいことこの上なかったが、後にこれは演出されたものとわかったのであった。

                  入寮した晩、グデングデンに酔っぱらった先輩(3回生)が帰ってきた。役員から「1回生!廊下に並べ」という命を受けて並んだところ件の3回生にパンパンパンパンと張り回された。

                  何ちゅうところじゃ、ここは。夜寝る時に涙が出た。そうこうしているうちに退寮者が続出。正規の退寮はまず認められないため夜逃げである。

                  どこかからリヤカーを借りてきて、夜中に荷物を運び出す。当時は車を持っている大学生など皆無に等しかった。

                  新人生のみならず上級生も逃げていた。不思議なことに当たり前のように、一切おとがめなし。

                  私も友人の夜逃げを手伝いながら、自分も……と密かに準備をしていたのだが、逃げそびれて翌年2回生になった時はめでたく……?役員就任ということになってしまう。

                    私の昭和、平成そして令和「小津の社(もり)➀」  スタッフМ

                    昨日のことのように思われる事だが、昭和46年(1971)、52年も前のことで我ながら驚いてしまう。

                    三重県松阪市から出てきて高知大学に入学した時のこと、住むところはてっとり早く大学の寮を選んだ。

                    今も昔の伝統を受け継ぎ(か、どうか…?)、現在は朝倉の地に南溟寮(なんめいりょう)である。

                    私の入学時には高知城の北にある小津高校に隣接してあった。旧制高知高等学校時代からの木造二階建ての、廃屋のごとくボロボロの建物が並んでいた。

                    高校時代、受験生だった頃、毎週火曜日の午後8時からのゴールデンタイムに放送されるNHKテレビの「ケンチとすみれ」を楽しみに観ていた。

                    主人公ケンチには藤岡琢也、すみれを演じるのはNHKの朝ドラでヒロインをつとめた林美智子、ケンチの友人「牛乳」は青島幸男、ほか野川由美子(マドンナ)、山本耕司(坊ちゃん)らが脇を固めていた。

                    南溟寮の寮歌もその中に効果的に使われ、バンカラの風潮にはかなき受験生の心に憧れの念を抱かせたのだろうか。