私の昭和、平成、そして令和「ほいとと開運橋」 スタッフМ

生粋の土佐人ではないため、古い時代の高知のことは知りませんが、所変われど何か共通したものがあるかと思います。盆、正月や春、夏、秋、冬休みなど母方の祖母の家に行くことを楽しみにしていました。祖母宅の近くには阪内川というきれいな川が流れていました。暖かい時期にはよく川で遊びました。この川には開運橋という木造の端が架かっていて、後に市内バスが運行するようになり、この橋を通るとギシギシときしみ音がしていました。さて、この橋の下には男の人が1人住んでいました。高知ではほいとといいますが、辞書にもあるので一般的な言葉でしょうか。当時は橋の下の住人は珍しいことではなかったようです。私は特にこのほいとさんとかかわることはなかったのですが、覚えているのはヘビを捕まえて食べていたということで、「精がつきますんさ」と言っていたことを、祖母や同居していた叔母から聞かされていました。いつの間にかほいとさんはいなくなり、阪内川も改修され、無機質な感じとなっていました。

ショータイムやぁ~めた!! ~館長~

今月6月。
私たち桂浜水族館は、ショーの廃止を決めた。

コロナ禍において、ソーシャルディスタンスの必要性でショーを中止していた。
本当にコロナは様々なことを変えた。
戦後初めての休館中にいろんなことを私たちに教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハマスイにショータイムは無くてもいい。
以前から、私たちはスイゾクの体調が悪かったり、
その気にならなければショーの内容をその場で変更してきた。
もちろん急遽中止にすることもあった。
体調がすぐれないだけではなく、スイゾクが「たのしいぃ~!」と
思えないショータイムはスタッフも苦痛なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

当館のショー廃止は、動物福祉の観点からだけではない。
私たちのいう「いきもの」とは、スタッフも入っている。
働き方についても、このショータイム廃止は大きい。
ショータイムがあれば、決まった時間に必ずショーをしなければならない。
お客様サービスとして告知をしているならば
その時間に実施しなければならないのだ。
「いきもの」にとって、これがいちばんやっかいなところだ。
もともと、給餌の時間がショータイムではあるが、
「いきもの」である、スイゾクもスタッフも毎日毎日その通りにはならないことだってある。

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナ禍でショー中止をしたら、「いきもの」はいきいきしたように感じた。
スタッフも時間の余裕が出て、スイゾクの観察をよくするようになった。
健康状態を知るうえで必要なトレーニング(ハズバンダリー)の種類を増やした。
スイゾクの能力を知る遊びを考え増やすことも積極的に始めた。
そのため、スイゾクの健康維持もよくできるようになったし、遊び時間も増えた。
当館の「いきもの」スイゾクもスタッフも、
彼らの楽しそうな顔。すっかり顔つきが違ってきた。
みんなに、ここハマスイで働くことが楽しいと思ってほしい。
スイゾクたちもハマスイで長生き出来て、多くのファンの方に愛してもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショータイムが無くなるとどう楽しむの?といわれるかもしれないが、
ハマスイは他にないゼロ距離で「いきもの」と楽しめる水族館だ。
時には、アシカやトドが館内を歩いている。
スタッフが休憩時間にアシカと一緒に寝ているのを館内で見ることがある。

館内には、クスっと笑えることや、えっ?と驚くことが多々ある。
いつ来てもいつもどおり楽しんでいただけるはずだ。

 

 

 

 

 

枠にはまらないハマスイ。
なんか変わるで 桂浜水族館!
毎日が楽しく笑顔いっぱいの職場、水族館となり
お客様にも笑顔の想い出づくりがたくさんできるような環境づくりに
尽力しようと思う。

私の昭和、平成、そして令和「カニさんの受難②」  スタッフM

結婚して現在の居住地である土佐市に住むようになると、勤務先の桂浜水族館からの帰り道にも群れをなして仁淀川めざして道路を横断するカニが出現。つぶさないよう気を付けて車を走らせましたが、朝の出勤時には無残にもつぶされたカニの死骸がいたるところに見られ、心が痛む思いでした。

これが原因なのかどうかは定かではありませんが(一因となっているのはたしかでしょう)、近頃めっきりカニの姿が減ってしまいました。カニの種類はアカテガニ、ベンケイガニ、クロベンケイガニなどで、特にアカテガニは海岸や川沿いの崖を登り、穴にかくれて生活しています。繁殖期には大群で水際に移動し、水に入って放卵します。道路を横切ってい移動する際に車に轢かれてしまうのです。道路の下にカニの通り道となるようなトンネルを設けるなどして、対策を講じてみてはとある人に話したこともありましたが…。

カニさんだけではないのかもしれませんが、受難が続いています。  おわり

私の昭和、平成、そして令和「カニさんの受難①」  スタッフM

大阪万博の翌年、昭和46年に高知大学に入学。水産系を目指していたことから海の生物に関心を持っていました。高校時代(三重県立松阪高等学校)は生物クラブに所属、海浜生物の調査・研究のマネごとをしていました。大学での部活はボート部。浦戸湾の灘地区に艇庫がありました。奥には古畳を敷いたスペースがあり、ホームレスさながらの合宿もできるようになっていました。壁はブロックで、よくカニが侵入し、天井近くまでも登っていました。

当時はカニがたくさんいて、海沿いの道路には初夏から盛夏にかけて産卵に向かうカニの大群が出現し、バイクや自動車でふみつぶしてしまうことが多々ありました。いはんや自動車をや!避けようがない状態でした。憂いつつ……   つづく

誰ぞね?スタッフ・ひかるん

こんにちは!4月に桂浜水族館のメンバーになりました、新米スタッフのひかるんです。

祝・ブログ初出演!!!!以後、お見知りおきを!

 

入社から早2か月。

気づけば、ピンク色だった桜の木々は新緑に染まり

「清純」の象徴だった漆黒の髪の毛は青く染まっていました。

波乱のゴールデンウィーク、人生初ラジオ、グッズ発売などなど

いろんなことを経験して「ハマスイ」に染まってきている証拠ですね!!!!

さて本題の「誰ぞね?」です。

ブログ初主演を記念して、自己紹介をさせていただきます。

まだまだ僕のことをご存じない方、必見です。

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名前:ひかるん

出身:群馬

(群馬、東京と続き高知に流れ着きました。うん!自然がいっぱい!)

誕生日:8月29日

(盛田のおんちゃんと1日違い!本人に自慢をしたら「誕生日を変えろ」とのこと。もう、素直じゃないんだから♡)

好き:うどん、カプリコ、橋本環奈さん

嫌い:アボカド、寒さ、早起き

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もっと僕のことを知りたくなったでしょ????

ハマスイの荒い波に溺れないように、まじめにふざけていきたいな!

桂浜桂浜水族館でお待ちしています!

私の昭和、平成、そして令和「タガメ②」  スタッフM

雨上がりの水溜りにはアメンボとともにいろいろな種類のゲンゴロウやミズスマシなどがいくらでもいましたが、今は水溜りそのものがほとんどなくなり、今は、虫たちの姿をみかけることもなくなったように思われます。環境破壊が急速に進んだことが原因ではないかと思っていますが、都市化が進み、明るい街路灯やネオンなどの光を求めて飛来する昆虫たちが夜が明けて帰路につくことができなくなったのではないでしょうか。おびただしい数のタガメ。ついそう思ってしまいます。

ある人から聞いた話ですが、タガメの採集のため大野見村から山に入り、さほど離れていない2つの池を調べたところ、1つにはタガメがいて、もう1つにはいなかったとのこと、私の勝手な仮説ですが、ひょっとするとタガメがいた池は町の灯りや街路灯が見えない位置にあり、もう一方からはそれが見えたということでは…?あくまでも推測の域を出ませんが、乱暴でしょうか。

難儀をかかえている動物は少なからずです。

私の昭和、平成、そして令和「タガメ①」  スタッフM

高知に来た昭和46年以前の20年間を過ごした三重県松阪市。小学生の頃は母方の祖母宅に行くのが楽しみでした。夏休みに泊まりに行った時は、祖母と同居していた叔母にねだって比較的近い松阪の中心街に夜な夜な連れて行ってもらいました。目的は街路灯の光に集まってくる昆虫でした。カブトムシやカナブン、蛾などさまざまな虫たちが飛び回ったり、側溝に落ちたりしていました。私のねらいはタガメでした。図鑑でしか見たことがなかった幻の虫(みたいな…)がおどろくほどたくさん飛来していたのです。これを難なく捕まえてゴチャゴチャと水槽に泳がせていたものでした。

現在、タガメは生息数が激減してしまい、マニアがこれを繁殖させてたのしんでいるようです。タガメだけではなくミズカマキリやタイコウチ、ガムシ、マツモムシなどの水生昆虫もたくさんいましたが、これらも全滅のおそれのある希少動物となっているようです。   つづく

私の昭和、平成、そして令和「けいりん道路②」  スタッフM

東京オリンピックの招致が決まり、全国の道路のアスファルト舗装による整備が進められてきました。けいりん道路にもコールタールの入ったドラム缶が置かれていました。ここで悪りことしぶりを発揮、木切れをつっこんでゴチャゴチャしているうちに服や体がまっ黒になるほど付着してしまいました。何とか家に帰り、ベンジンなどでふきとってもらいましたが、大変な作業だったと記録しています。祖母がまだ健在の頃で、他にもだれかがいたと思うのですが、はっきり思い出せません。

けいりん道路は今もしっかり機能しているようで、実家の父母が健在だった頃、帰省時に歩きにも行きましたが、様変わりしていて、それ異常に昔思っていたよりも以外と距離が短いことを感じてしまいました。

私の昭和、平成、そして令和「けいりん道路①」  スタッフM

戦後の復興もかなり進んでいた昭和26年に生まれた私、「戦争を知らない子どもたち」です。さほど不自由な暮らしをしていなかったので、戦争、戦後の体験記みたいなことは書けませんが、昭和の原風景的なものを私なりに紹介してみたいと思います。

生まれ育った三重県松阪市、松阪競輪が開催されていて、多くの人たちが集まって来ます。松阪駅から南西に下ったところから右に曲がり、まっすぐに伸びた道をけいりん道路と呼んでいました。私の母校、松阪市立第二小学校の校区内で、当時は舗装されておらずデコボコで、雨が降ると水溜りがたくさんできました。これが私たちの格好の遊び場で、ゲンゴロウやガムシ、ミズスマシ、マツモムシ、アメンボなどをつかまえて遊んでいました。競輪のある日以外は車の往来もほとんどなく、遊び放題でした。夜はけいりん道路を横切って、家族で歩いて銭湯に行き、その頃できた日立のネオン塔の文字が変わるのを眺めるのが楽しみでありました

つづく    次回はこれにまつわる「悪いことしの記」

私の昭和、平成、そして令和「怖かった話④」スタッフM

桂浜水族館に就職した昭和50年の夏、私は水泳が苦手でしたが、先輩の高谷さん(エコオヤジ)が大学時代水泳部だったので、イルカプールで手ほどきを受けていました。

そんな時、桂浜沖に人の死体らしきものが流れてきたのです。竜宮岬から見ると人のようでもあり、流木のようにも見えます。通報するにも流木ではどうにもなりません。そこで意を決して確認することにしました。当時の桂浜は遊歩道沿いに土産品店が並んでいて、おばちゃんたちが浜に出ていました。

「行かれんぞね、やめちょき」

「水泳は高谷さんから習っていますから」

その日は高谷さんは休みでした。目標まで50mか100mか波打ち際近くまで流れてきていました。水中眼鏡で前を見ながら接近。1mまで近づくと心臓が凍りつく!背広姿の人が下向きに浮いていました。腐乱した様子はなし。必死になってとび逃げる。息もつかずクロールで泳ぎ波で打ち上げられた形。

「人や人や!背広着た大きな男や」

死体は流されて泳へ出て行き、夕方のニュースで実際は140cmほどの小柄な年輩の女性ということを知りました。動揺して目測を誤ったのでした。

その晩は朝倉米田の高知大学南溟寮へ行き、まだ卒業していない同期生たちや後輩たちとビールやら酒やらウイスキーやらを飲みまくって……、何とか眠りにつきました。