私の昭和、平成、そして令和「タガメ①」  スタッフM

高知に来た昭和46年以前の20年間を過ごした三重県松阪市。小学生の頃は母方の祖母宅に行くのが楽しみでした。夏休みに泊まりに行った時は、祖母と同居していた叔母にねだって比較的近い松阪の中心街に夜な夜な連れて行ってもらいました。目的は街路灯の光に集まってくる昆虫でした。カブトムシやカナブン、蛾などさまざまな虫たちが飛び回ったり、側溝に落ちたりしていました。私のねらいはタガメでした。図鑑でしか見たことがなかった幻の虫(みたいな…)がおどろくほどたくさん飛来していたのです。これを難なく捕まえてゴチャゴチャと水槽に泳がせていたものでした。

現在、タガメは生息数が激減してしまい、マニアがこれを繁殖させてたのしんでいるようです。タガメだけではなくミズカマキリやタイコウチ、ガムシ、マツモムシなどの水生昆虫もたくさんいましたが、これらも全滅のおそれのある希少動物となっているようです。   つづく

私の昭和、平成、そして令和「けいりん道路②」  スタッフM

東京オリンピックの招致が決まり、全国の道路のアスファルト舗装による整備が進められてきました。けいりん道路にもコールタールの入ったドラム缶が置かれていました。ここで悪りことしぶりを発揮、木切れをつっこんでゴチャゴチャしているうちに服や体がまっ黒になるほど付着してしまいました。何とか家に帰り、ベンジンなどでふきとってもらいましたが、大変な作業だったと記録しています。祖母がまだ健在の頃で、他にもだれかがいたと思うのですが、はっきり思い出せません。

けいりん道路は今もしっかり機能しているようで、実家の父母が健在だった頃、帰省時に歩きにも行きましたが、様変わりしていて、それ異常に昔思っていたよりも以外と距離が短いことを感じてしまいました。

私の昭和、平成、そして令和「けいりん道路①」  スタッフM

戦後の復興もかなり進んでいた昭和26年に生まれた私、「戦争を知らない子どもたち」です。さほど不自由な暮らしをしていなかったので、戦争、戦後の体験記みたいなことは書けませんが、昭和の原風景的なものを私なりに紹介してみたいと思います。

生まれ育った三重県松阪市、松阪競輪が開催されていて、多くの人たちが集まって来ます。松阪駅から南西に下ったところから右に曲がり、まっすぐに伸びた道をけいりん道路と呼んでいました。私の母校、松阪市立第二小学校の校区内で、当時は舗装されておらずデコボコで、雨が降ると水溜りがたくさんできました。これが私たちの格好の遊び場で、ゲンゴロウやガムシ、ミズスマシ、マツモムシ、アメンボなどをつかまえて遊んでいました。競輪のある日以外は車の往来もほとんどなく、遊び放題でした。夜はけいりん道路を横切って、家族で歩いて銭湯に行き、その頃できた日立のネオン塔の文字が変わるのを眺めるのが楽しみでありました

つづく    次回はこれにまつわる「悪いことしの記」

私の昭和、平成、そして令和「怖かった話④」スタッフM

桂浜水族館に就職した昭和50年の夏、私は水泳が苦手でしたが、先輩の高谷さん(エコオヤジ)が大学時代水泳部だったので、イルカプールで手ほどきを受けていました。

そんな時、桂浜沖に人の死体らしきものが流れてきたのです。竜宮岬から見ると人のようでもあり、流木のようにも見えます。通報するにも流木ではどうにもなりません。そこで意を決して確認することにしました。当時の桂浜は遊歩道沿いに土産品店が並んでいて、おばちゃんたちが浜に出ていました。

「行かれんぞね、やめちょき」

「水泳は高谷さんから習っていますから」

その日は高谷さんは休みでした。目標まで50mか100mか波打ち際近くまで流れてきていました。水中眼鏡で前を見ながら接近。1mまで近づくと心臓が凍りつく!背広姿の人が下向きに浮いていました。腐乱した様子はなし。必死になってとび逃げる。息もつかずクロールで泳ぎ波で打ち上げられた形。

「人や人や!背広着た大きな男や」

死体は流されて泳へ出て行き、夕方のニュースで実際は140cmほどの小柄な年輩の女性ということを知りました。動揺して目測を誤ったのでした。

その晩は朝倉米田の高知大学南溟寮へ行き、まだ卒業していない同期生たちや後輩たちとビールやら酒やらウイスキーやらを飲みまくって……、何とか眠りにつきました。

 

メ異とボク 第43話&44話 スタッフ・ひな

皆様こんにちは。色々バタバタしていてようやくブログ書けて4コマ描けた私です!

メンダコ「リアルにバタバタしてました!」

何週ぶりかになりますので今回は『メ異とボク』シリーズ2本立てです!

メンダコ「カオス4コマが帰って来たよ!」

 

 

 

 

 

 

まず1本目は、『入れ替わったメ異とボク』

なんで入れ替わったって?・・・ご想像にお任せします。

メンダコ(考えてないなこれは・・・)

 

 

 

 

 

 

 

 

きっとメンダコくんと入れ替わったら、吸盤に慣れるまでが大変だと思います!

あとはいかに必要最低限に体を動かさずにエネルギーを温存できるのか!

メンダコ「急に真面目だな

 

そして2本目は『耳そうじとボク』

皆様は耳掃除をする時に、どの耳かきを使いますか?

綿棒?梵天付き耳かき?それとも高性能付き耳かき?

(最近薬局でライト付きや3つ歯がついている耳かきを見つけました)

ちなみに私は綿棒派です

メンダコ「過去に梵天付きの竹耳かきを使ったら力入れすぎてって事があったよね・・・」

メンダコくんも耳あるし、耳かきしてみる?

 

 

 

 

 

 

 

 

メンダコ「あれからメ異がボクの耳を見ようとしないんだけど、何があったのかな???」

実はこの時、出てくるのが藻にしようか海ぶどうにしようか迷いました。

海の中なら体に海藻とかまきつくんじゃないかと・・・。

 

また来週から更新できるようがんばります~

 

私の昭和、平成、そして令和「怖かった話③」スタッフM

高知大学農学部では、1,2回生は朝倉キャンパスで学び、3,4回生は日章(南国市)キャンパスに移るということになっていました。

南国市立田に下宿を定めた時のことです。田んぼの中にその下宿があり、私の部屋から2~30m先の田んぼの中に小高く盛り上がった一角がありました。昼、ボーッと窓から外を見ていた時に奇妙な集団が現れました。頭にザルのようなものをかぶり、いろいろなものを手に持って、田んぼの中の島みたいな所を並んでグルグル回っています。そのうち大きな風呂桶のようなものをかついできて、あらかじめ握ってあったであろう穴に納めて土をかけたのです。座棺、土葬!目のあたりに見た初めての光景。話には聞いていましたが、さすがにゾッとしました。そのうち集まった人々はゾロゾロ帰り始めました。「おーい、そんなもん置いていくなよーーふらふら

下宿は主屋から離れていて三部屋ありましたが、私一人しか入居していませんでした。小川が流れていて蛍もたくさんいていい所でしたが…。卒業するまで2年間暮らしましたが、化けて出てきたものはありませんでした。昭和48年のことです。

私の昭和、平成、そして令和「怖かった話②」  スタッフM

家に帰りついても眠ることができない状態でした。母が添い寝してくれて、やっとポツポツとうちあけました。

母が教えてくれたのが、それは多分ケロイドといって原爆を受けた時に負ったやけどのひどいものだろうということでした。当たっているかどうかはわかりませんでしたが、私が被爆の恐ろしさを知り、学んだ第一歩でしょうか。

子供の頃の記憶は、正直薄れかかってきましたが、戦争の怖さ、犠牲になった人々のとりかえしようのない苦しみははかりしれないものであるとつくづく思わされます。

生々しい戦争体験記が記されている書物などがあります。筆をとられた方々、戦争体験者の方々が時の流れとともに風化していくことを余儀なくされていく中で、大変貴重なものを残して下さっていると思います。

私が体験したことも些細なようで、決して些細ではなく、風化させてしまってはいけないのかなと思い、ペンをとった次第です。

私の昭和、平和、そして令和「怖かった話①」スタッフM

小学校5年の終り、春休みのことでした。昭和38年のことですから古い古い話になるのでしょう。祖母が東京にいたことがあり、伯父が東京に住んでいたことを以前書かせてもらいましたが、祖母は毎年上京して伯父宅や祖母の妹宅に出向くことが慣例でした。

この年の春休みは突然あこがれの東京に連れていってくれることになりました。当時は新幹線はまだなく、松阪から名古屋に出て、東海道本線を特急つばめで上京。上天気で雄大な富士山を車窓から眺めることができました。東京では銀座や新宿、浅草など、数日楽しい日々を過ごしました。

その帰りのことです。名古屋で乗り換えた近鉄電車の中で恐怖を感じたことがありました。それは顔半分がぐちゃぐちゃになった女性でした。こんなことを書いていいのかどうかと思いますが、子ども心に本当に怖かった!!楽しかった東京行きどころじゃなかったのです。

つづく

現地販売!オーロラの缶バッジとマニアックイラスト スタッフ・ひな

スタッフブログをご覧の皆様こんにちは!

今、マリンピア神戸 さかなの学校さんでしか買えない桂浜水族館の新商品はご存知でしょうか!?

 

 

 

 

 

これです!私がデザインしました「メンダコくんオーロラ缶バッジ」!

数量限定!現地販売のみとなりますので、皆様!光の速さでさかなの学校さんへ急いでください!缶バッジ以外にもこの度出版致しました絵本「アカメと過ごしたグレ坊」や私が一目惚れしましたさかなの学校さんのカッパ「魚々郎」くんイラストのグッズ、

そしてさかなの学校さんスタッフ「りょーすけさん」とのコラボポストカードも販売中!!

魚々郎くんカッコよかったなぁ~

メンダコ「27日のイベントで魚々郎くん連写してたよね・・・・写真撮ってる時の顔といったら・・・(震)」

 

 

 

 

 

 

更にこちらも現地販売1点物のご紹介!

先日3月27日より開催しております、さかなの学校さんとのコラボイベント

第2回「春のガチンコ芸術祭」にて、私とりょーすけさんが描きましたイラストをさかなの学校さんで

展示販売をさせていただいております!どんなイラストを描いたのか?

こちらも現地にてご確認いただけたらと思います!

ちなみに私のイラストは、全て今回が初出。一点限りになりますので見る事買う事ができるのは4月10日までとなります

イラストのデジタルはデータも残っていない、アナログイラストは再作成できない1点物になりますので是非さかなの学校さんへ見に行ってみてください!

さかなの学校さんのTwitterページはこちら

 

私の昭和、平成、そして令和「悪りことしの記③」スタッフM

故郷三重県松阪市はJR紀西本線、参宮線と近鉄が並んで運行している所です。子どもの頃、乗り物が好きで当時の国鉄の蒸気機関車や近鉄のスマートな特急電車を見に行き、絵を描いたりして遊んでいました。

ある時、上級生がへんなものを見せてくれました。薄っぺらくプレスされた不思議な金属片でした。よく見ると1円や5円、10円硬貨でした。何と列車に轢かせたとのこと。線路に置き石などをすると脱線の危険があることは重々承知の上のこと、しかし、金メダルや銀メダルのようなものが、画期的?な方法で作れるということに大変な魅力を感じたのです。早速、これを試みたのは言うまでもありません。しかも、線路の下をくぐるお百姓さんの通り道に潜み、上を通る列車の底を観察したりもしていました。当時の列車の便所は垂れ流しだということを知る由もなく、後から思うに汚いところに潜んでいたものでした。線路付近で子どもがチョロチョロしているという報を受けて2人のおじさんがやってきました。そして見事に御用。一緒に遊んでいた悪童(誰がじゃ!!)どももお縄につき、置き石があったことも発覚。2人のおじさんに家まで押しかけられる始末(何と横着な表現げっそり (顔)

おじさんたちは鉄道公安官と名のりました。ちょうど鉄道好きの少年少女と鉄道公安官が出てくるマンガがあり、あこがれの気持ちを抱いていたこともあり、あろうことか事の重大さよりワクワクした気分になってしまっていましたが、以後はこのような悪さは一切しておりません。両親が健在な頃、松阪に帰省すると教員であった2人とよくこの話をしたものでした。親泣かせとはこのことですねバッド (下向き矢印)