私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)⑤」  スタッフМ

何年か前に、私の3年ほど後輩に当たる寮OBが、寮歌を歌う会を作ろうと私たちの時代の人を集めて4,5回ほど続けたことがあった。

その時、南溟寮(なんめいりょう)へ行ってみようと誰かが言い出して、急拠酒とツマミを仕入れて乗り込んで行ったことがあった。

応対してくれた総務(寮の最高責任者)はさわやかで男気のある好青年で、現在は周辺住民への配慮を余儀なくされているが、今日は特別に寮歌を歌ったりストーム(豪気節を歌い乱舞する)をやってもよいと言ってくれた。

そこで、懐かしい小津の杜ではなく、朝倉米田の田園地帯……だったが今では住宅地で心置きなくやらせてもらい、寮生たちから水をぶっかけられ、ビショビショになり、高知の町に戻って飲み直したものであった。

私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)④」  スタッフМ

この寮歌練習の間に、喉が弱く大声が出せないという理由で退寮した者や夜逃げした者が出た。

たしかにシゴキではあったが、儀式のようなものであり、しっかり覚えなければどうこうされるものではなく、逆に寮歌は私たちの心の歌、誇りでもあるという感覚が生まれてきた。

コンパなどでは率先してこれらの歌が歌われた。当時はカラオケなどなく、手拍子で歌ったものだった。

現在、私の勤務する桂浜水族館に博物館実習やインターンシップで来る高知大生で南溟寮生(なんめいりょうせい)や寮をよく知る学生に聞くと、いつの頃から寮歌練習は廃れてしまい、寮歌が歌われることがなくなったとのこと。

それでも一部の高知大生や教官の間で「慕南歌」などが歌い継がれているようである。

私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)➂」  スタッフМ

一回生として入寮すると間もなく寮歌練習というものが始まる。

一週間ほどかけて毎日1曲から2曲の寮歌を覚えさせられる。そもそも寮歌は旧制高知高等学校時代、大正13年度より毎年募集して作られてきたらしく、その中から優れたもの、学生たちによって歌い継がれてきたものから10数曲が選ばれ、たたきこまれる。夜の10時になると1回生全員が食堂に集められ、役員が1節ずつ歌うのを何回か繰り返して歌い、覚えこんでいく。

直立不動で2時間、「声が小さーい!」などとゲキをとばされ耐え抜かねばならない。寮の南側すぐ近くを江ノ口川が流れており、当時はパルプ廃液で茶色くドロドロに汚染され、臭いこと臭いこと。プーンと漂ってきた。

また、これも近くの高知城には動物園(現在はわんぱーくこうちアニマルランド)があり、当時飼育されていたゾウのナミコさんがもの悲しげにパオーッと鳴く声が聞こえてきた。

私の昭和、平成そして令和「小津の杜(もり)➁」  スタッフМ

さて、南溟寮(なんめいりょう)に入ってびっくり。面接というのがあり、1人1人が部屋に呼ばれ、役員たちにとり囲まれ、正座をして声をふりしぼって応答しなければならない。

凄みをきかせた役員もあり、恐ろしいことこの上なかったが、後にこれは演出されたものとわかったのであった。

入寮した晩、グデングデンに酔っぱらった先輩(3回生)が帰ってきた。役員から「1回生!廊下に並べ」という命を受けて並んだところ件の3回生にパンパンパンパンと張り回された。

何ちゅうところじゃ、ここは。夜寝る時に涙が出た。そうこうしているうちに退寮者が続出。正規の退寮はまず認められないため夜逃げである。

どこかからリヤカーを借りてきて、夜中に荷物を運び出す。当時は車を持っている大学生など皆無に等しかった。

新人生のみならず上級生も逃げていた。不思議なことに当たり前のように、一切おとがめなし。

私も友人の夜逃げを手伝いながら、自分も……と密かに準備をしていたのだが、逃げそびれて翌年2回生になった時はめでたく……?役員就任ということになってしまう。

私の昭和、平成そして令和「小津の社(もり)➀」  スタッフМ

昨日のことのように思われる事だが、昭和46年(1971)、52年も前のことで我ながら驚いてしまう。

三重県松阪市から出てきて高知大学に入学した時のこと、住むところはてっとり早く大学の寮を選んだ。

今も昔の伝統を受け継ぎ(か、どうか…?)、現在は朝倉の地に南溟寮(なんめいりょう)である。

私の入学時には高知城の北にある小津高校に隣接してあった。旧制高知高等学校時代からの木造二階建ての、廃屋のごとくボロボロの建物が並んでいた。

高校時代、受験生だった頃、毎週火曜日の午後8時からのゴールデンタイムに放送されるNHKテレビの「ケンチとすみれ」を楽しみに観ていた。

主人公ケンチには藤岡琢也、すみれを演じるのはNHKの朝ドラでヒロインをつとめた林美智子、ケンチの友人「牛乳」は青島幸男、ほか野川由美子(マドンナ)、山本耕司(坊ちゃん)らが脇を固めていた。

南溟寮の寮歌もその中に効果的に使われ、バンカラの風潮にはかなき受験生の心に憧れの念を抱かせたのだろうか。

「私の昭和、平成そして令和」2023年新シリーズに向けて,  スタッフM

明けましておめでとうございます。旧年中はとりとめもないブログにお付き合い下さり恐縮です。そしてうれしいコメントを賜りました方々には心よりお礼申し上げます。

とりわけ、ズルズルと続けてしまった食べ物シリーズですが、私のいやしんぼにご理解を示していただき、つい調子に乗ってしまった次第です。

さて、次回より一転、新シリーズとして私の学生時代の話(大作…?)でご機嫌をお伺いしたいと思います。エッセイ風の雰囲気を出せればと思い、文体を変えてみたいと思っています。

本年もよろしくご笑覧くださいますよう謹んでお願い申し上げます。

 

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック㉕水」 スタッフМ

食べ物の話もここまでやれば、もうそろそろという感じです。

そこで今回は食べ物と密接な関係にある水をとり上げてお茶を濁したいと思います。私が小学生の頃はまだ水道が完備しておらず、わが家では井戸があり、手押しのポンプで汲み上げていました。

かなり良い井戸だったようで、飲み水として、そのまま利用もしていました。後に水道が普及しましたが家自体がとり壊され、井戸もなくなってしまいました。

高知にくると水が美味しいと感じることがしばしばありました。特に前の晩に飲酒をした(毎日やないかい!ちっ (怒った顔)

翌朝は甘味さえ感じられます。

そういえば、柔道家でプロレスラーとなった木村政彦が力道山と対決する前に九州から寝台列車で東京に戻る際、車中で飲み明かし、出迎えに来た空手家の大山倍達に「酔い醒めの水は値千金。実にうまい!」と言ったくだりが「空手バカ一代」という漫画に書かれていて、妙に印象を抱いています。

日本は水道水をそのまま飲める世界でも数少ない国といいます。数年前、カンボジアとベトナムを旅したことがありますが、水に十分気を付けなければならず、往生したものです。よくぞ日本に生まれけり手 (チョキ)

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック㉔他人丼」 スタッフМ

小学校低学年の頃、母が別の学校の教員をしていて、夏休みに日直がある日によくついていきました。昼は近くの食堂から出前をとってもらって職員室で食べました。

他人丼というのがあり、私は親子丼よりこちらの方が好きでした。

この店のものは鶏肉の代わりに牛肉を使っていました。いわば卵でとじた牛丼のようなものでした。

大人になるまでこれを口にする機会がなかったのですが、最近たまに行くうどん店で他人丼がメニューに加わり、注文してみました。

こちらは牛丼ではなく豚丼が使われていて、「他人」にはちがいはないのですが、何となくもの足りなさを感じてしまいました。松阪牛を食って育った男やでのー

(ホンマかー?)

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック㉓アスパラ水煮」 スタッフМ

レストランや食堂に野菜サラダなるメニューがあることを知ったのは小学生の頃。

そもそもそんなところで食事をすることなど滅多にないことでした。

たまたま口にした野菜サラダはごく普通のものでしたが、当時はハイカラなドレッシングではなく塩とマヨネーズで味を付けていたと思います。

野菜の上にはスティック状の黄色いものが…?やわらかく独々の味わいで、美味しいというよりは何やら特別の高級感を覚えたものです。

アスパラガスという植物を水煮にしたものということを知り、大人になってからもごくたまに缶詰めや瓶詰めを買う事がありますが、家族はあまり好まないようです。

今ではグリーンアスパラやホワイトアスパラの生のものが流通しているので、こちらの方が食卓に上がります。ただ、私は水煮の汁まで好きなのでありますが…がく〜 (落胆した顔)

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック㉒鯨南蛮漬」 スタッフМ

これも私の中高時代の弁当によく入っていたもので最も好きなおかずの1つでした。

前回のマルシンハンバーグとちがって、鯨という制約を受けて早々に姿を消したようでした。南蛮漬とありますが1枚のステーキ状の肉がタレに漬かっていて、ビーフステーキのような味わいでした。多分、安価で販売されていたのでしょう。

袋から出してフライパンでさっと焼くだけなので調理も至って簡単、今なら酒の肴としても重宝すると思いますが、残念ながら私にとっては幻となってしまいました泣き顔