私の昭和、平成、そして令和「怖かった話②」  スタッフM

家に帰りついても眠ることができない状態でした。母が添い寝してくれて、やっとポツポツとうちあけました。

母が教えてくれたのが、それは多分ケロイドといって原爆を受けた時に負ったやけどのひどいものだろうということでした。当たっているかどうかはわかりませんでしたが、私が被爆の恐ろしさを知り、学んだ第一歩でしょうか。

子供の頃の記憶は、正直薄れかかってきましたが、戦争の怖さ、犠牲になった人々のとりかえしようのない苦しみははかりしれないものであるとつくづく思わされます。

生々しい戦争体験記が記されている書物などがあります。筆をとられた方々、戦争体験者の方々が時の流れとともに風化していくことを余儀なくされていく中で、大変貴重なものを残して下さっていると思います。

私が体験したことも些細なようで、決して些細ではなく、風化させてしまってはいけないのかなと思い、ペンをとった次第です。

私の昭和、平和、そして令和「怖かった話①」スタッフM

小学校5年の終り、春休みのことでした。昭和38年のことですから古い古い話になるのでしょう。祖母が東京にいたことがあり、伯父が東京に住んでいたことを以前書かせてもらいましたが、祖母は毎年上京して伯父宅や祖母の妹宅に出向くことが慣例でした。

この年の春休みは突然あこがれの東京に連れていってくれることになりました。当時は新幹線はまだなく、松阪から名古屋に出て、東海道本線を特急つばめで上京。上天気で雄大な富士山を車窓から眺めることができました。東京では銀座や新宿、浅草など、数日楽しい日々を過ごしました。

その帰りのことです。名古屋で乗り換えた近鉄電車の中で恐怖を感じたことがありました。それは顔半分がぐちゃぐちゃになった女性でした。こんなことを書いていいのかどうかと思いますが、子ども心に本当に怖かった!!楽しかった東京行きどころじゃなかったのです。

つづく

現地販売!オーロラの缶バッジとマニアックイラスト スタッフ・ひな

スタッフブログをご覧の皆様こんにちは!

今、マリンピア神戸 さかなの学校さんでしか買えない桂浜水族館の新商品はご存知でしょうか!?

 

 

 

 

 

これです!私がデザインしました「メンダコくんオーロラ缶バッジ」!

数量限定!現地販売のみとなりますので、皆様!光の速さでさかなの学校さんへ急いでください!缶バッジ以外にもこの度出版致しました絵本「アカメと過ごしたグレ坊」や私が一目惚れしましたさかなの学校さんのカッパ「魚々郎」くんイラストのグッズ、

そしてさかなの学校さんスタッフ「りょーすけさん」とのコラボポストカードも販売中!!

魚々郎くんカッコよかったなぁ~

メンダコ「27日のイベントで魚々郎くん連写してたよね・・・・写真撮ってる時の顔といったら・・・(震)」

 

 

 

 

 

 

更にこちらも現地販売1点物のご紹介!

先日3月27日より開催しております、さかなの学校さんとのコラボイベント

第2回「春のガチンコ芸術祭」にて、私とりょーすけさんが描きましたイラストをさかなの学校さんで

展示販売をさせていただいております!どんなイラストを描いたのか?

こちらも現地にてご確認いただけたらと思います!

ちなみに私のイラストは、全て今回が初出。一点限りになりますので見る事買う事ができるのは4月10日までとなります

イラストのデジタルはデータも残っていない、アナログイラストは再作成できない1点物になりますので是非さかなの学校さんへ見に行ってみてください!

さかなの学校さんのTwitterページはこちら

 

私の昭和、平成、そして令和「悪りことしの記③」スタッフM

故郷三重県松阪市はJR紀西本線、参宮線と近鉄が並んで運行している所です。子どもの頃、乗り物が好きで当時の国鉄の蒸気機関車や近鉄のスマートな特急電車を見に行き、絵を描いたりして遊んでいました。

ある時、上級生がへんなものを見せてくれました。薄っぺらくプレスされた不思議な金属片でした。よく見ると1円や5円、10円硬貨でした。何と列車に轢かせたとのこと。線路に置き石などをすると脱線の危険があることは重々承知の上のこと、しかし、金メダルや銀メダルのようなものが、画期的?な方法で作れるということに大変な魅力を感じたのです。早速、これを試みたのは言うまでもありません。しかも、線路の下をくぐるお百姓さんの通り道に潜み、上を通る列車の底を観察したりもしていました。当時の列車の便所は垂れ流しだということを知る由もなく、後から思うに汚いところに潜んでいたものでした。線路付近で子どもがチョロチョロしているという報を受けて2人のおじさんがやってきました。そして見事に御用。一緒に遊んでいた悪童(誰がじゃ!!)どももお縄につき、置き石があったことも発覚。2人のおじさんに家まで押しかけられる始末(何と横着な表現げっそり (顔)

おじさんたちは鉄道公安官と名のりました。ちょうど鉄道好きの少年少女と鉄道公安官が出てくるマンガがあり、あこがれの気持ちを抱いていたこともあり、あろうことか事の重大さよりワクワクした気分になってしまっていましたが、以後はこのような悪さは一切しておりません。両親が健在な頃、松阪に帰省すると教員であった2人とよくこの話をしたものでした。親泣かせとはこのことですねバッド (下向き矢印)

私の昭和、平成、そして令和「悪りことしの記➁」スタッフМ

氷山の一角のうちの一つ、私から冬にかけて稲刈りがすんで水のなくなった田んぼで、土の中に潜んでいるケラをつかまえたりしてよく遊んでいました。そこに稲わらを束にして積み上げて先のとがった円柱形のものが作られていました。高知ではわらぐろというらしいのですが、私たちの地域ではすすきぼっくりと呼んでいたようです。これは格好の遊び道具で、お百姓さんが一生懸命積み上げたものからわら束をひっこぬいて遊んでいました。これが続いたため、ついにお百姓さんに見つかり御用となったわけですが、私があきれるほど悪気もなく、ペラペラとどこの学校の何年生ということをしゃべったため、すぐに学校に苦情が入ったのです。翌日の朝礼で父が進行係に当たっていて、このことを全校生徒の前で話し、注意をうながしたのですが、この時は犯人が誰か伝わっていませんでした。主犯格が発覚し、啞然としたのはいうまでもありません。捕まえてみれば我が子なり(父の言葉)。穴があったら入りたいとはまさにこのことでしょう。松阪に帰省した際、今は亡き父がいつも語り草に、呑べえ揃いの父母や私の弟たちの酒の肴にしていました。  つづく

私の昭和、平成、そして令和「悪りことしの記①」スタッフM

私が子供の頃通っていた三重県松阪市立第二小学校,大先輩にバタやんこと歌手の田畑義夫さんがいます。「オーッス!」

私の両親はともに小学校の教員で、家は第二小の敷地内の教職員住宅でした。条件として父母のどちらかが第二小の教員であるということで、私が低学年の頃は父が、その後母が入れ替わりに異動、そしてまた父が再び教頭としてまたまた入れ替わり赴任してきました。私はとにかく悪さをして、物置場の天井に入り込み天井板を踏み破って、職員室に立たされ、母に恥をかかせたり、音楽の時間に下品な替え歌をコーラスして女性の先生を困らせ、担任の男性の先生からビンタをもらったり、マッチで傘立てのこうもり傘に火をつけて骨だけにしてみたり(今なら警察沙汰…!)と今思うとゾッとするようなことをしていました。氷山の一角。  つづく。

次回は極めつけを白状。乞御期待!…にやよーばんもうやだ〜 (悲しい顔)

メ異とボク 第42話 スタッフ・ひな

皆様こんにちは。初の出張で先週から汗その他が止まらない私です。

え~、ご存知の方もいるのではないでしょうか。今月の26、27日の2日間

神戸と大阪にお邪魔させていただきます。色々初めてという事もありますので

現地ではよろしくお願いします。

挨拶もほどほどに、約二週間振りの「メ異とボク」シリーズ始まります。

 

 

 

 

 

 

え~、サムネイルからすでにメンダコくんが立体っぽくて軽く酔った方もいるのでは?

メンダコ「うぎぃ~・・・ちょっと酔ったんだけど・・・」

今回の話、サムネイル同様に目を凝らして見すぎると、軽く目が回ります。

実は先日ある雑貨屋さんに行った時、面白いペンを見つけて買ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2本のインクが1本になっている「ツインク」というペン。

傾け具合で単色でも書けるし、2本線を1度で引ける、工夫次第で色んな書き方ができて面白かったです!

というわけで今回はこちらのペンを使用してメ異とボクシリーズ描いてみました!

 

タイトル『ペンで遊ぶメ異とボク』

 

 

 

 

 

 

 

 

メンダコ「うぎぃぎぎ・・・今度は完全に目が回ったよ・・・」

今回は遊び心でこのペンで描いてみましたが、次回からはいつものペンで描いていきますー

 

私の昭和、平成そして令和「私はなぜ今、ここにいるのだろう(番外編)」  スタッフM

腰痛に見舞われた時、当時の館長の奥さんに知り合いの祈祷師(霊能者)のような人のところへ連れて行ってもらい、ご先祖様の墓参りはしなければと思っただけで治ってしまったということを書きましたが、その時の話。

先生が私の背中に手を当てると、上向きにかざした私の手の指先から湯気のようなものがポッポッと出るということです。館長の奥さんは驚いて「たいちゃー出るねー」。私には何も見えません。

後日、連絡があり、ご先祖様か背後霊が何らかに影響しているとのこと、高知にご先祖様があることを話してはいませんでした。ともあれ、腰痛は治ったのでした。

その後、忘れるほどの年月を経て、墓参りを実現させたのですが、さらに時を経て、大分県の大学に在学していた息子が就活のために帰ってきたので、なかば強制的に墓参りに同行させました。すると、いろいろやっていた就活の中で、地元土佐市で内定をもらい、現在に至っています。これもおみちびきなのでしょうか?

私の昭和、平成そして令和「私はなぜ今ここにいるのだろう?⑥」  スタッフM

上京の際、祖母の妹たちのもとに立ち寄ると、いろいろな話を聞かされたのですが、歴史や文化にあまり関心がなく、どちらかというと理系かなーといった感じの私には、馬耳東風、申し訳ない話でした。それでも掛軸を手にして恐れ入ってしまいました。三宅、山崎のおばさんも亡くなり、掛軸が残るのみですが、家系図を調べたりするわが娘や、墓参りを強く進めた同僚の女性、高知大学に導いた友人、桂浜水族館への就職のきっかけとなった別の友人たちの存在は私にとって何だったのだろうかと思うと、何か超自然的なものを感じ得ずにいられません。

私の祖母がなぜ三重県の松阪なのか、詳細はよく知りませんが、久元の孫にあたる久敬(土方与志)の左翼活動が大きく影響していた事実があります。これにより、土方家は爵位返上と華族除名の厳罰を課せられたといいます。祖母の弟の久武は出家、一族の因果を仏のもとにおさめようとしたのです。久武は玄味さんという坊さんで、私たちは「原(静岡県)のおじさん」と呼んでいました。松阪にも時々来て、小さい頃の私や弟に本や菓子などを買ってくれました。耳の穴から毛の束がはえていたかわった風貌の人だったことを覚えています。

いろいろ書き連ねてきましたが、紛れもなく私はご先祖様ゆかりの土佐にいるのです。土方家のキーワードは「久」。そういえば東京のおじさん(父の兄)は丸林久信で、しっかり「久」がついています。映画監督やテレビのプロデューサーをしていて、おばさん(泰子)の弟は何と、今も現役の森本毅郎氏です。

伯父(久信)も伯母(泰子)も玄味さん(久武)も他界しました。

千田稔著『明治・大正・昭和華族事件禄』(新潮文庫)には「赤い伯爵」の左翼演劇活動として詳しく記されています。  終わり

私の昭和、平成、そして令和「私はなぜ今、ここにいるのだろう?⑤」 スタッフM

掛軸をもらう際、「貴男は直系ですもの」と言われ、ノー天気な私は伯爵がご先祖様とすっかり思い込んでいました。ところが当時兵庫県の宝塚市にいた私の娘が土方家の系図を調べて写メしてきたのです。よく見ると歴然。私は久元伯爵の直系ではなく、その弟である久規の筋でした。三重県松阪市在住の私の父(故人)に問い合わせると久規は若くして死亡したため4人の子、安亀、久武、福、八千子を久元に託したとのこと。長女安亀が私の祖母です。

4人は東京小石川林町というところの久元の別邸に引き取られたのです。このことは私が祖母の妹、福(三宅)千代子(山崎)から聞いた話で、2人は東京の下北沢に住んでいて、私が学生時代、上京する機会があれば訪問していました。祖母は私が小学5年生の時亡くなり、2人の妹たちに祖母の面影を見たからでした。

小石川の別邸はそれこそ大邸宅で、長女安亀と妹2人とは身分に大きく隔たりがあり、安亀はお姫様のごとく優遇され、福と八千子は離れ住まいだった由。夜になると安亀が振袖姿でしゃなりしゃなりと、妹たちの離れに残り物のお菓子をたずさえて通ってきたとのこと。私を育ててくれたおばあさんの若き日。そういえば私の子供の頃の祖母は着物姿が多かったように記憶しています。

次回はいよいよ完結編。ファミリー・ヒストリー!(またや´□`)