ひさしぶりのフィールド ~館長・Seana~

先日、私が所属する神戸の生物多様性を守る会が運営する
外来生物展示センター主催で南あわじへ行っていました。

ものすごく良いお天気に恵まれてたのもあるのだが
あわじの自然には本当に感動した。
三原ボーイスカウトのみんなといっしょに外来種について
フィールドで学ぶというイベントだったが
現地に行くと自然豊かというか、懐かしい独特の時間が流れる場所があった。

古くからある日本の時間がゆっくりと
令和の今も昭和とおなじように流れている。
集合場所が神社とお寺の境内というのも私にとってはとても新鮮だった。
その地を守る神仏が身近に今も存在しているというか
街の生活としてこどもたちに引き継がれていく日本の風習が
ここ南あわじには今もある。守っていきたい日本がここにある。
と、ともにまた自然もしかりだった。

ものの数分でこどもらが「捕まえた~!」と興奮気にやってきた。
見てみるとなんとタガメではないか!
ついつい「タガメやんか!!!!!」と大きな声が出た。
こんなに簡単にタガメと出会えるとは、南あわじの自然は素晴らしい。
その後もカワニナ、タニシやメダカなどを、これはたまるかといわんばかりに
たくさん簡単に捕まえてくる。
とくにカワニナを大量に採ってきていたことから、
この川にはたくさんの蛍が現代もいることが予測できた。

ジブリワールドのようなところだと感じた。
高知にも多くの自然が残されてはいるが、
高知とは違う自然がここ南あわじにはあったし、感じた。
こどもたちはボーイスカウトの団長から長くつを履くように指示されていたのだが
長くつの中に水が入っても平気で夢中になって採取していた。
境内で地面に座ることを汚くなるから嫌だ!と言っていた子たちとは思えない。

こどもたちが本来の姿で楽しんでいるのをフィールドで見るのは何年ぶりだろう。
コロナ禍ということもあるが、館長になってからはなかなか無いことだ。
やはり現場が一番で最高に楽しい。
高知では館長ということもあり、
現場には若手を出し経験をさせ次の世代につなげることが仕事でもある。
しかしながら、神戸での私は役職もなく諸先輩方と共に活動出来る。
学ぶということの楽しさを実感している。

私の昭和、平成そして令和(食べ物カルチャーショック⑪大やん) スタッフM

次なる大作を…とブチ上げときながら(準備はできとるんよ手 (チョキ))、いやしんぼとしてはまだまだ思い出したり浮かんでくるのでありますよ。小豆様のコメントにも触発されて、しばらくやめれんぜよがく〜 (落胆した顔) もう数回はやるのだわーい (嬉しい顔)

小学生の頃、校区内に「大やん」という店がありました。夏はかき氷、1杯5円!

学校が終わってからよく行きました。7杯食べた猛者もいました。冬はお好み焼き。

店頭でおばさんが焼くのはクレープ状に薄く、丸く焼く生地にキャベツ、天カスなどを盛り上げ、ちくわの薄切りをトッピング、玉子焼きみたいに折りたたみ、ソースをたっぷり塗り、経木に乗せて提供されるもので10円!店内では普通にセルフで焼くのもあり、どちらも楽しめました。女の子たちはソースでまっ黒にしたものをパンパンパンとたたき、ペラペラにして食べていました。

高級なお好み焼きなど知る由もありませんでした。年月が経ってから自宅でおばさんのお好み焼きを再現してみようと試みたのですが、うまくできたためしはないのですよもうやだ〜 (悲しい顔)

「食べ物カルチャーショック🈡 伊勢中川駅の立食い~中華そば」 スタッフМ

昭和45年(1970年)、大阪万博が開催された年、私は浪人生活を余儀なくされていました。自宅の松阪から近鉄の急行で名古屋まで1時間半かけて河合塾への通学でした。

大体、車内では古典を読んだりテキストに出てきた英単語を覚えたりしていましたが(本当ですよ)

同様にして通学する同級生たちと乗り合わすと桑名や四日市で途中下車して、ホームにあった立ち食いできしめんなどを食べたりしていました。とりわけ近鉄名古屋線と大阪線の分岐に当たる伊勢中川駅の立ち食いの中華そばは最も好きで、大阪方面の各駅停車に乗り換える友人に付き合って小腹を満たしたものでした。

灰色の浪人生活の中、ささやかな楽しみといえましょうか?

とりとめもなくくだらないことを書いてきましたが、嘲笑いされる前にひとまず終了します。次、大作行けるかなーボケーっとした顔

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック⑨ケガニ」 スタッフМ

高知大の学生となり、1~2回生は寮生活、3~4回では、南国市立田での下宿生活でした。1人暮らしの気ままな4畳半₍実際は6畳)、前には小川が流れ、夏にはホタルが舞います。フォークな世界でした。寮生だった頃酒を覚え、呑んべえとなっていました。近くの小さなスーパーでケガニが格安の特価で売られていました。これを手に入れ、1升瓶を用意。炊飯器でカニを蒸し上げチビリチビリ(グビリグビリ?)。ついに一升が空いてしまいました。当然翌日は‥‥ ボケーっとした顔 アホじゃーっ泣き顔

北海道出身のモリタのおんちゃん(小栗さん)はタラバやズワイよりケガニが美味いと。異論は唱えるのが故、堀内氏。こちらはエガニ(ノコギリガザミ)派。身をほじくるということも醍醐味か?飲みすぎ注意、くわばらくわばらボケーっとした顔

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック⑧シュークリーム」スタッフM

もうそろそろやめにゃいかんと思いつつ、思い出が友人たちとの会話にも出るので、しつこいですがもう少し、しつこいですがもう少し、私が子供の頃好きだったのはシュークリーム。

松阪では小ぶりのカスタードクリームが入ったものでした。小学5年の春休み。昭和38年頃でしょうか、祖母につられて上京。銀座にはヤマザキパンのカフェがありました。今では全国的に広がっています。

ここで親戚の人やいとこたちと集い、シュークリームを食べたのです。これが巨大で生クリームがいっぱい入った恐ろしく美味しいものでした。

私の中では最強のカルチャーショックでしたが、今はコンビニでもスーパーでも安価で手に入るものとなり、しっかり美味しいのですが、食べるのが下手な私はかぶりつくとクリームがボトッバッド (下向き矢印)  ダメだこりゃーボケーっとした顔

私の昭和、平成そして令和「食べ物カルチャーショック⑦カキフライ」  スタッフM

思いつくままに食べ物について書いているうちに、数回どころかどんどん増えていきます。

特に食い意地が貼っているわけではないのですが、戦後の復興がどんどん進んでいく時代を過ごしたため、食べ物に対する執着みたいなものが身についたのでしょうか。

カキフライは好物でした。ただ、これを初めて口にした時の記憶はなく、広島や三重県の的矢崎のカキも食べたことはありますが、特にカルチャーショックを感じる事はありませんでした。

ここで取り上げるのは、受験生時代、東京の大学を受験するため、伯父宅に1ヶ月間ほど居候していた頃。夕食にカキフライをごちそうになりました。普通は中古濃ソースやタルタルソースでいただくもので、店に食べに行くと大体こんなものと思います。

伯父宅はちがっていました。何とカラシじょうゆなのです。「おじさんの家ではこうして食べるんだよ」と伯父が言いましたが、これにハマりました!

衣がしょうゆを吸って、塩分摂取量が心配ですが、自宅でカキフライを食べる時は私のみ、これでありますよ。まー、ためしにやってみたや手 (チョキ)

私の昭和、平成、そして令和「食べ物カルチャーショック⑥はんぺんフライのカレーがけ」  スタッフM

時代が前後しますが、小学生時代、給食に出たおかずの話です。

私はみつまめ以外何でも給食が好きで、給食のおばちゃんたちに感謝の作文を書いたほどでした。中でもとくにすきだったのが白はんぺんをカツのようにパン粉をつけて揚げたものにカレーをかけたものでした。

今思うにカツカレーのようにフライにしたものとカレーは最高の組み合わせではないかと思います。有名カレーチェーン店ではカツカレーやビーフカレー、メンチカツカレー、カキフライカレーなどラインナップがそろっています。

昭和30年代の給食で、この魅力を味わうことができ、いやしんぼとしては大変幸せだったなと思っています。

私の昭和、平成、そして令和「食べ物カルチャーショック⑤そうめん」  スタッフM

何でそうめんがカルチャーショック?と思われる方もおられることと思います。

実は子どもの頃、松阪の実家ではそうめんは油臭いということで、ひやむぎを食べていました。ひやむぎもそうめんもつけ汁につける食べ方でした。高知に来た年の夏、大学の生協の学食にそうめんが登場しました。それを見てびっくり、始めから汁につかっているではないですか。

とりあえず注文してみました。これが口にあうことこの上なし。つけ汁のように食べ進むうちに汁が薄くなることがなく、実家で聞いていた油臭さなどみじんもありません。一発でハマってしまい、町の食堂へも食べに行きました。そうめんは手延べする時に使う油が良くなったことと、ゆで上げた時に冷水でしめ、よく洗うことで美味しくなるということを教えてもらいました。

以前、桂浜水族館のフードストアのそうめんが日本1とブログで紹介したことがありますが、今年はフードのスタッフが手が回らないということで、そうめんがメニューからはずされたそうです。甚だ残念であります。

私の昭和、平成、そして令和「食べ物カルチャーショック④天ぷらうどん」  スタッフM

天ぷらうどんの名は知っていました。家庭でもよく天ぷらを揚げていました。大体野菜がメインで芋や人参、玉ねぎなどが食卓に上がっていました。これをうどんに入れて食べるなどゾッとしないなーと思っていました。食わず嫌いというものでしょう。初めて口にしたのは昭和45年、受験に行った先の下関駅の構内の立ち食いでした。同行した友人につられて注文したのですが、普通のやわらかいうどんに小エビのかき揚げ天が乗った極めてシンプルなものでした。これが衝撃的だったことで以後、天ぷらうどんのとりこになってしまいました。高知大学に入学した頃、当時は山陽新幹線などなく宇高フェリーで四国に渡り、高松駅の構内で天ぷらうどんをよく食べたものです。これも小エビのかき揚げ天だったのが、大きいエビ天に変わりました。

高知でも天ぷらうどんを食べるため、うどん店をよく巡りました。1年下の後輩も「うどんは天ぷら!」と言っていたのが印象的です。今はセルフのうどん店で気楽に食べられますが年齢とともにむつこさは避けられません涙

私の昭和、平成、そして令和「食べ物カルチャーショック➂チキンラーメン」 スタッフМ

私の小学生低学年時代、とんでもない食べ物が出回りました。お湯をかけるだけでできるラーメン、チキンラーメンの登場でした。それまでは家でラーメンを食べるのは出前か、寿がき家のやや手のかかるものでした。チキンラーメンはインパクトがあり、美味しい!と思ったものでした。誕生日のごちそうにリクエストしたほどでした。その後、もうひと手間かければより美味しいものができる袋麺が台頭し、チキンラーメンは姿を消しました。復活したのは大学卒業後だったのかなーと思います。若い人(50代)に言わせると「チキンラーメン、美味しくないねーバッド (下向き矢印)」私にとっては何をか言はんやがく〜 (落胆した顔)

大阪の池田にインスタントラーメン発明記念館があり、3度ほど訪ねて行っています。チキンラーメンの生みの親、安藤百福氏の思いがつまっています。リアルタイムで経験したチキンラーメンの味、自慢したくなります。